賤ヶ岳【422m】と「戦の後」
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2013年3月31日、曇り空でしたが、ひさびさに時間ができたので、琵琶湖を眺めに滋賀北部を歩きました。
歩いた山は、「賤ヶ岳」で標高は422mです。
びわ湖の一番北、近江の北のはずれ、北は越前、東は美濃との国境となります。
1582年(天正10年)、本能寺の変にて織田信長が倒れます。その後継争いは羽柴秀吉と柴田勝家でした。
その最終決戦地がこの地で、「賤ヶ岳の合戦」として有名です。
翌年1583年(天正11年) 両陣営間で小規模な戦闘が続いていましたが、膠着状態が続いたので、秀吉が大垣(関ヶ原の東方)に引き上げました。
これを好機とみた、柴田勝家が佐久間盛政(金沢城主)に賤ヶ岳北にある大岩山の砦を攻めます。
秀吉側の中川清秀(大阪茨木城主)は奮闘空しく、ここで全員討死してしまいます。
道は植林地帯で、植生も貧相で決して歩いていて気持ち良い道ではありません。
植林地帯整備事業が行われていました。
商品としての杉が切り出されていました。
整備が進んで、どんどん明るい植林になってほしいものです。
その同日、この落城を知った羽柴秀吉は大垣から軍を賤ヶ岳の麓の木之本へ移動させます。
14時に大垣を出た秀吉は、52Kmを5時間で駆け抜けたそうです。
本陣を賤ヶ岳の山頂に置き、全軍を指揮しました。
多勢に無勢の状況を支えきれず柴田勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却し、雌雄が決しました。
これが、羽柴秀吉が織田信長の後継者としての確固たる地位を獲得した 「賤ヶ岳の戦い」 のあらましです。
今、
山頂からは、琵琶湖が望めます。眼下に奥琵琶湖とその向こうに60Km以上!も琵琶湖が続いています。
北側には余呉湖があります。
びわ湖と同時代にできたといわれる古い湖で、大昔は琵琶湖と繋がっていたそうです。
今はこの山が間にあり、山頂からは両側をみることができます。
低山ですが、展望は抜群です。
まだ朝の9時、誰もいない山頂を独り占め、熱いお茶をゆっくりと飲みながら思いに耽っておりました。
約400〜600万年前に出来た湖は、北上を続けて約40万年前に今の位置にゆ〜くりと動いてきました。
約400年前の合戦時、戦国武将たちは 同じ景色を見ていたはずです。
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