友へ

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2019年春 友人が逝った。まだ39歳。

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そんなに深い間柄では無かった、たまに宴会で一緒になったり昼飯を食べたり。
「友人」だ、LINE上での友人でもある。
静かだが、内なる闘志満々の魅力的な人だった。
闘病の末、静かに逝ったそうだ。
子供は二人いる、まだ小さい。 亡くなったベッド上の母親を見て「ママ、いきしてないの、ねてるだけでしょ?どこへいったの?」 と聞いたそうだ。
辛い。

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そう、
そんな深い仲ではなかった…、でもこの感じる悲しみは想像以上に深い、なにかが違う。
この喪失感はなんだろう。私より年上の方々との悲しい別れは何度も経験した。
きっと、近くてこれだけ若い死は初めての体験だからだ。
友が、以降の人生をもう体験できないことを残念に思ったからだ。自分も経験した39歳以降の笑って泣いて楽しんで苦しんだりする体験。

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友の親友が、みんな病気の事を心配していた。心配は温かい。
私は、間接的に聞いて疑似体験しており、実体験以上にすごく身近な存在になっていた。
でもそんな情報が蓄積していって、心の中では友人から「親友」に変ったに違いない。
そんな一方的な理由で、LINE上でエールは送って励ましていた。なんだこいつと、苦笑いしていただに違いない。
ウナギを食べたいと言えば、食べに行こうと誘い、
あの通りの銀杏並木が懐かしいと言えば走って行って写真を撮って送った。

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最後は10日前、早春に咲く「カンザクラ」の写真を送って、「花見にみんなで行けるといいね」だった。

一般的に、39歳の死は若すぎる。
でも、物は考えようで、周囲の悲しみは、それを悲しむ自分自身の生きていかねばというエネルギーになり、脈々とその人の中で生きている。
遺伝子は子供に残り、若すぎると残念に思う人にはその思いがその人に留まり、それが生きていく糧になる。
そう思い、そう思われるような人生の友人は幸せだったか・・・。
残された人の勝手な理屈で、天国の「親友」は苦笑いしているに違いない。

早春、ソメイヨシノより早く開花するカンザクラ。 
小さくておとなしめで、可愛くて、よく見るとちゃんと主張しているこの桜。 それを見る度に、彼女を思い出す。

2019年3月10日 [記]   2020年3月20日[改]

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