【東日本大震災に想う】
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東日本大震災に想う
2011年3月11日(金)東日本大震災が起こった。
その被害のすさまじさは…今の私の国語の実力では「言葉にならない」
東北関東大震災が起こった翌々日(3月13日)から1週間、会社命により被災地である宮城へ物資支援活動に行った。
自然のおそろしさと人間のすばらしさを感じた1週間だった。
仙台港をはじめとする臨海工業地帯は全滅。多賀城市の港側もほぼ壊滅状態。
ほとんどが津波によるもだろう。
多賀城市はあまり報道されないが、それは悲惨な状況だった。
間接的にお付き合いのあった会社の社員の方も、現在7人の方が亡くなってしまった。(合掌)
被災地の悲惨な状況はTVでさんざん報道されているので、敢えて書きはしない。
その支援チームは10人編成だった。
行きは、愛知→長野→新潟→秋田→岩手→宮城という高速のルート。
山形自動車道は月山道路が雪崩で通行止めで一般道は夜間通行止めで通れず、そうとうの大回りで仮眠を取りながら、運転を交代しながら1日以上を掛けて到着した。
仙台には泊まる場所はなく、事務所の床にシュラフを持ち込みそこで過ごした。
岩手からの東北自動車道は緊急車以外は通行禁止でしたが、 支援物資を積んでいるというと許可書をその場で発行いただき、お役所仕事でない迅速な対応に驚いた。
ガソリンが不足する(自分たちの帰り分)との予想から、新潟あたりから携行缶をガソリンスタンドで買いつつ、現地からの刻一刻要望がくる支給物資を町々で買い足しながら、現地へ向かった。
行く先々のスーパーやガソリンスタンドで、「がんばってな」と言われ、みんなが心配しているんだな〜と人ってまだまだあったかいな〜と思いつつ、勇気づけられた。
避難所では、まだ支給物資がまだ十分でなく、食糧はもちろん携帯トイレなどたいへん喜ばれた。
心からよろこんでいただくいたり、その支給物資をお渡しした際の安堵の表情は、なにものにも代えがたい遣り甲斐を感じた。
新潟駅前では学生が早々に募金活動を始めていた。 多賀城市には韓国からの救助部隊もいた。
まだまだ人間ってのは、“人のためになにかをしたい”って気持ちがあることにほっとした。 人ってすばらしいな〜と改めて思う。
業務の都合上、仙台港の臨界地帯もを調査していました。
切れた電線はだらんと垂れ、液状化現象に足を取られ、まだ異臭を放つ工場近くを歩いていると、さすがに危険を感じ、そうそうに引き上げた。
人の造った人工物など、津波の前ではもろい。
波にさらわれるとあっという間に流され、港のなにもない広大な場所がかえって不気味だった。
一度は、津波警報がでて、警察と消防の街宣車が「高台に逃げろ!」と叫ぶ騒然した中、駅の駐車場の上階へ避難をする経験もした。
買い溜めなど横行しているだが、ちょっと冷静に考えればそんな必要はない。 また、直接被災地へ何か送ることだけが支援ではない。
節電すればそのあまった電力を被災地へ送れる。
余計なトイレットペーパを買わなければ、巡り巡って被災地へ届く。
献血も被災地のためでなくても、進んでやれば、きっといつか被災地へ。
そう考えれば、われわれにできることはいくらでもある。 さあ、明日からも何かをしよう!と思う。
仙台の郊外の青葉の森には、氷河時代も生き抜いたカタクリの花が咲き始めていた。
この花に、人が負けるわけにはいかない。人類の英知が試される時。
<2017年3月11日追記>
とうとう、まだ、6年。 原発事故の避難指示も相次ぎ解除されいる。
でも、震災で亡くなった方は16,000人弱、いまだ行方不明の方は2,500人以上。
この災害を忘れまじ! 亡くなった方に改めて、合掌。
2013年3月19日〈記〉 2017年3月11日<改>
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