上高地 梓川の地形と景観
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仲間と上高地を歩いた。仲間は植生を教えてくれ、私は原山先生に習ったことを復習する。
先日の資格支援講座でもこの上高地を紹介したが、ここは中部山岳国立公園内、文化財保護法により「特別名勝・特別天然記念物」の称号を関する日本の宝もの。
個人的な最大の魅力は、広く気持ちよい歩きやすい川辺から眺める3000m級の山々の景観だろう。
約12,000前、釜トンネル(大正池下流部)から徳澤まで12kmにわたる大きな湖だった。(上高地ネイチャーガイド協議会パンフ)
5,000年をかけて湖底には土砂が溜まり、広々とした平らな面が広がった。
その水が亡くなった状態を現在の我々は見ている。そんな古い歴史の痕跡は地形図を見れば一目瞭然。
国土地理院の「地形図」と「陰影図」を並べて比較する機能を使ったみた。
陰影図とは「北西の方向から地表面に向かって光を当て、凹凸のある地表面の北西側が白く、南東側が黒くなるよう作成した図。尾根線、谷線の判別や断層の判読などにご活用できる」とある。
大正池から横尾まで、ほぼ色が同色ということは傾斜がないことを意味する。
左上の断面図でも傾斜は大正池から新村橋(徳澤上流部)まで11kmで86mしかない。1km(1,000m)歩いても8mもない!
これは、先日 撮影した「焼岳と大正池」
白谷山、アカンダケと焼岳で火山群を形成、この焼岳の奥にある白谷山が約1万年前に梓川をせき止めて上高地湖を作った。
焼岳は2万年前から活動が活発になって、4000年前にマグマ噴火、2300年前に焼岳円頂丘溶岩、それに中尾火砕流を起こしている。
下部のこんもりした緑が4000年前、山頂部とそこから右側になだれているように見えるのが2300年前のマグマ噴火の堆積物。山頂部は現在も噴煙を上げている。
大正湖は新しく、大正4年(1915年)に噴火し、泥流によって梓川が堰き止められてできた堰止湖。
上高地の美しい景観の一つだが・・・東京電力が水力発電用調整池として使っているので浚渫しているが、それを止めれば7〜8年で土砂の流入で埋まってしまうそうだ(By Wikipedea)
焼岳の流れを地形図でみても、不揃いの等高線だが、陰影図でみると不規則な凹凸が流れるさまはマグマの流れのように見えてくる。
田代湿原の右上にある、八右衛門沢の谷口からの綺麗な円弧を描いているのは「扇状地」だろう。
陰影図でも同色が綺麗に扇方に広がっているのは良く分かる。
その先にある出来物の様な凹凸は「流山」と呼ばれる。
岩石からみると向かい側の玄文沢から、地震?で山体崩壊した際になられえて来た「流山=ほぐれ残りブロック」(原山先生講座資料)らしい。
そうやって、地形図と陰影図を眺めると、実にマニアックに面白い!(笑)
「田代湿原」
・・・八右衛門沢からの土砂が梓川を遮って出来た湿原で、1915年には水深5mあったが、現在進行形で埋まっている。(国交省HP)
地形図では湧水もありそう。 湿原に点在する中州に樹木がある小丘は、流山の一部。
この上高地を代表する湿原も、刻一刻と変化している。
元文沢から山体崩壊して流れて来たのは、1736年(江戸期 元文)という記録!?もあるようだ。
自然の移ろい、時間の流れを感じならが眺めれば、更に美しく見える湿原の風景。
さらに上流には、「河童橋」と「岳沢湿原」がある。
河童橋は、陰影図をよく見ると善六沢上流から崩れた土砂が広がっている。
これは大きな「山体崩壊」。梓川もクランク上に流路を変えるほどのインパクト。
そして、押し出されて梓川が一番狭くなったところに、橋が架かっていることが良く分かる。
この崩壊は、「おそらく最終氷期以降(1万年前〜)におき、梓川を堰き止め、その崩壊堆積物の先端は五千尺ホテル裏の岩盤まで達した」
「水は崩壊堆積物末端の最低鞍部を超えて流れた」「通常の扇状地を作る砂礫と異なり、岩塊と粘土基質からなる堆積物は、河川の浸食に対して抵抗力がある」
ゆえに、この川のクランクは改変されにくいのか。ほんとうに興味深い。先生の講義に感謝。
「河童橋」から上流側を望む。
ここまで大正池から約4km、標高差はたったの19mしかない。
上高地で最も有名な風景。
目の前を梓川は、山体崩壊にブロックされ直前にクランクして、広々とした河原を優雅に緩やかに流れる。
見上げれば、右から明神岳、前穂高、吊り尾根、奥穂高、左側に西穂岳と3000m級の山々がそびえる。
ど真ん中に岳沢、その麓に岳沢がある。
こんな景観、まさに日本の宝、「特別名勝・特別天然記念物」
「岳沢湿原」は、立ち枯れの樹木と綺麗な水向こう側に見える六百山の景観が美しい。
地形図を見ると梓川が網目状になっており、きっと山体崩壊した土砂が浅瀬を作り、浅くなったことで流れが緩やかになり、流路が分岐したのでは?
山体崩壊後も谷側は伏流水となり、湧水として湧き出している。水がとても美しい。
立ち枯れの樹木も目立つ。湿原がいつできたか不明だが、上流からの土砂で湿原の水位が上がり、酸欠で枯れたと想像する。
よって、この景観になったので、そう遠い昔ではない。ここも日々に自然が移ろっている。
そんな複雑な条件がこの景観を作っている・・・そんな想像がまた楽し。
岳沢を超えて「安曇」というエリア。
梓川は蛇行を繰り返し、広い河原が続く。
本当に広い。空も河原も・・・12000年前に湖の底だったことを思い出す。
岳沢からは東側に六百山が見えたが、この辺りからは南側に焼岳が樹間から見える。
どこを切り取っても絵になる。
地形図は更に上流へ、明神を超えた処から徳澤上部の新村橋まで。
上高地湖の北端までか!?
相変わらず川は蛇行を繰り返して広い。右岸は山体崩壊?や扇状地と思われる陰影が見て取れる。
「徳澤」エリアは広い。
有名な徳澤園や徳澤ロッジ、テント場、初夏のニリンソウ、ハルニレの巨木・・・徳澤園には何度かお世話になった。
昭和初期までは牧場だったそう。
地形の成立ちが分かりにくい、谷川から堆積物が積み上がって出来たようだが、谷川が堆積物の南端を流れている。
山が崩れて、川筋が変わったのか!? そんなことを想像してみる。
徳澤近くの梓川、ここまで来ると遠くに常念山地が見え始める。大天井岳と手前に赤沢山かな。
河川幅はまだ広い水量が増えれば川の流れも変わるのだろう右側に「ケショウヤナギ」がある。氾濫地に自生するフロンティア植物で上高地の代表格。
もう一枚が徳澤の「ニリンソウ群落」と「ハルニレ林」
ニリンソウは湿潤な山裾の林縁や谷川沿い半日陰地に自生するし、
ハルニレは渓畔林で適度に攪乱された斜面下部にもよく出現(Wikipedea)するらしい.
植生からも、この地は崩壊地だろうかと推察する。想像がまたも楽しい。
大正池から遡り、徳澤を超えて「新村橋」まで来た。
おそらくこの辺りが上高地湖の北の端だろう。
確かに河原も狭まっている。(というか狭いところに橋を架けている)
遠目に見えるのは、右が六百山(岳沢湿原から目前に見えた)、その左が霞沢岳。
六百山の向こう側が釜トンネル、そこからここまで12kmか。
ここまで湖があった。それも1万2000年前というと、縄文時代初期だから、自然史的には遥かに通り昔ではない。
尚、もう一枚の写真はさらに上流の横尾大橋から下流部となる。
この先は本当に狭い谷となり、槍ヶ岳へ梓川の源流部へとつながる。
この広く長い湖底の産物からの眺めは、素晴らしい山岳風景と特徴ある植生を作ってくれた。
歩いて楽しみ、地形図や陰影図でまた楽しむ。日本の景観の宝。
2024年8月3日[記]
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