明治村の窓

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古い建物の窓には味わいがあります。
長い時間が経つ程に、多くの人がその窓を通して、それぞれの思いを抱きながら外を眺める。
高級ホテルの窓、商家の窓、道場の窓、研究所の窓…見る人の性別も、立ち位置も、職種も、それぞれ違う。

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<帝国ホテルの窓>
大正2年(1923年)に、フランク・ロイド・ライトによって設計され、皇居の前に建てられました。斬新なデザインのホテルです。
正面玄関を入ったロビーの右奥にある窓です。
帝国ホテルだから、お客様はお金持ちだったでしょう。
この窓には皇居のお堀が広がっていたのかもしれません。

5つの長方形の窓が並び、窓枠全体の内側に細かいガラスをはめ込んだ幅のある内枠が見事です。
よく見ると、内枠には細かいガラスでそれも色違いのガラスで構成されており、おしゃれな造りになっています。

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<前橋監獄雑居房の窓>
明治21年(1888年)和洋折衷の雑居坊です。
配置は十字放射型なのですが、個々の部屋は江戸時代の牢獄そのものです。
太くて堅い栗材の柱を狭い間隔でならべ、部屋はたいへん狭い!
何人が押し込まれたかは分かりませんが、プライバシイもなにもない。
写真左下に小さな受け渡し窓があり、食事などの遣り取りはここを通じていたのでしょう。
この窓の狭さが、囚人達の自由度の無さを現すようで、なんとも不憫です。

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<高田小熊写真館スタジオの窓>
明治41年、越後高田に建てられた写真館です

2階にスタジオがありました。
当時は、人工照明がないため、最も苦労したのは、外光を如何に効率的に取り込むかでした。
屋根の角度を考え、屋根を大きなガラス張りとして、
黒白の天幕で外光をコントロールしたようです。
まだ導入されたばかりの銀板写真に、人々は興味深々だったことでしょう。
どんな人が写真を撮りに来たんでしょうか。

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<尾西鉄道蒸気機関車1号の窓>
明治29年に尾西鉄道が設立された際に、アメリカのブルックス社から購入した蒸気機関車です。
明治30年に弥富-津島間が、明治31年に津島-一ノ宮間が開業しました。
機関車から見た風景です。
窓外に見えるのは、鉄橋です。「六郷川鉄橋」
明治5年に新橋ー横浜間に鉄道が開通しましたが、橋はすべて木造だったそうです。
順次、鉄橋に架け替えられました。
この橋は、明治10年に複線用鉄橋としては玉川下流に初めて建設されたもので、開通式には時の工部卿である伊藤博文も出席したようです。
なにげなく通っていた橋にも、偉人の足跡が残っているのだと、改めてこの明治村の意義を思いました。

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<第四高等学校武術道場(無声堂)の窓>
大正六年に金沢に建てられました。
柔道・剣道・弓道の3つの道場がある大きな道場です。
あまり派手さのない建築ですが、柔道場には床下にスプリングがあり弾力性があり、剣道場は床下に溝を掘り込み音響効果を出す工夫があります。
この畳の部屋に入るだけで、気持ちが引き締まります。そんな感覚を持つことが出来るこの場所を気に入っております。
道場が故にシンプルな窓もお気に入り。
懸命に鍛錬する学生の声が響きます。

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<第四高等学校物理化学教室の窓>
明治42年の建物です。近代化を進めようとしていた明治政府は物理化科学には力をいれ、この種の実験学習がでできる教室を数多く作りました。
縦長の上げ下げ窓、欄間には回転窓が取り付けられています。
私も高校時代は、意気盛んに物事に真理を自然科学をもって解き明かそうと、当初は「物理」「科学」を選択しました。
この数年、理系離れが流行りですが、当時は、きっと人気学科だったことでしょう。
ここで学んだ技術屋さんが明治の近代化の一翼を担っていたにちがいありません。


ホテルも刑務所も写真屋も乗り物も道場も学校も、形は違えど、今も存在します。
それを利用する人の心持は…今も昔も同じかも知れません。



平成25年9月23日<記> 出典:明治村のパンフレット/ガイド
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