北京大学 短期留学時代 1986年春

空と雲と山歩き>プロフィール>北京大学 短期留学時代


画像

画像


大学四年生の最後の春は、中国の北京大学に短期留学だった。
大学で成績が良かったわけでない、それどころか「落第生」だった。大学が推薦状を出してくれれば、北京大学が短期留学生として受け入れてくれる。 
5週間、午前中に授業があって、午後は自由時間というゆるい留学。
1986年という時代は、鄧小平が改革開放路線を初めた1972年から16年目、
まだ市場経済への移行期という時代。古い共産主義の匂いが残る。そんなタイミング。

画像

画像

画像


留学生寮は殺風景な個室。勾楼4号棟307号室。
長方形の4状半、ベッドと机と棚、かんたんなクローゼット。暖房は全館オイル管が配備。
北京の2月は寒い、最低気温ー5度、最高+5度。
写真の赤いポットを部屋外に出しておくと、お湯を補充してくれる。
共同のシャワー室があり、湯舟はない。
シャワーはコンクリートに背中を付けて暖かいシャワーをじっくり浴びる。あのコンクリートの冷たい感触を今でもシャワーを浴びると思い出す。
海外で生活するという初体験、すべてのことが新鮮で、楽しいことも苦しいことも体にしみこんでいる。

画像

画像

画像


留学生寮の位置は北京大学の北西側だった。
大学は北京市の中心街の北西の外れにあって、寮の窓からは奥にある“通い詰めた”「頤和園」が見えた。
入口近くには毛沢東像が堂々と立っていた。
教室も食堂も、写真がないのが残念だが、食堂の食券が緑色だったことを妙に覚えている。
日本の大学に比べれば、まだまだ質素。
街を歩るけば、殺風景で、広告も少なく、まだ人民服を羽織った人が当たり前のように通りを歩いていた。
人民元と兌換券(外人が持つ紙幣)が分かれていたり、建国飯店で紅茶を頼んだら、TeaPackが出てきて自分で入れた事、
街や文化は、まだまだ社会主義の色合いが濃く、社会の発展振りも一時代前を感じさせた。

画像

画像

画像


通い詰めたのは「頤和園」、毎週のように行った。
1153年の金朝時代から整備が始まり、水源確保の為に湖は混明湖は人口湖、奥の山は万寿山で60mの人口の山。
最後は西太后が自信の居所として莫大な費用をかけて整備して、1895年に完成「頤和園」と名付けたそうだ。
とにかく、トロリーバスの定期も持っていたし、気軽に行けて散歩をした。
冬は寒くて、凍てつく昆明湖を徒歩で縦断したり、万寿山の上に立つ「仏香閣」から公園を良く眺めた。

画像

画像


なにせ、初めての異国の地、さみしい。 
中国語の出来も悪いので、授業も面白くないこともある。
そんな時は万寿山の山頂から、昆明湖を眺めれば、ストレスも少しは発散できた。
大学には彼女もいたが、そんな彼女との別れ話の手紙をここで読んだり・・・
所謂、青春時代の淡い思い出もここにある。
いつか北京を再訪したら、必ず行くのはこの万寿山の頂だろう。

午後の時間は北京周辺の有名処を回った。どこも中国の歴史を感じる場所・・・いまはどれだけ観光地化させているか。
今思えば、中国に留学させてもらい、オプションで旅行して、お金はほとんど親が出してくれいた。能天気な大学生だった。

画像 画像 画像 画像 画像 画像 画像 画像 画像 画像 画像

画像

画像


「明の十三稜」
明代の皇帝、皇后、皇貴妃と皇太子等の陵墓群で十三代ある。
墓は地下宮になっていて、とにかく広い。
神道と呼ばれる長いアプローチを歩いたこと、地下の宮殿が広かったことをよく覚えている。
広大な土地がある、皇帝という億単位人間の頂点にいることが、こんな巨大遺物を造らせることに驚く。

画像

画像


ちょっと遠くでは、「万里の長城」
八達嶺までバスで、そこからは徒歩で自由に歩いた。
「月から肉眼で見える唯一の建造物」というこの城・・・(実際には見えないことが分かったが)
異民族から中華を守る為の城、始めたのは秦の始皇帝、7920kmで現存するのは6260kmらしい。
「中華を守る」という意識の高さ、これを造ろうと思う壮大な発想、
大陸に生まれ落ちた民族の宿命とは言え、この発想が今でも中華民族には脈々と活きていると思えば
現在、世界のひのき舞台に登場することは容易に想像できる。

画像

画像


5週間の短期留学を終えて、季節は3月終盤、放浪の旅へ。
k 「寒山寺」中国南北朝時代のお寺。
なんといっても、この寒山寺は、中唐の詩人で政治家でもあった張継の七言絶句「楓橋夜泊」によって広く知られている。
この詩は都落ちした旅人が、蘇州西郊の楓江にかけられた楓橋の辺りで船中に泊まった際、旅愁のために眠れぬまま寒山寺の鐘の音を聞いたという様子を詠ったもの。
  中国語で漢詩といえば、まずこの「楓橋夜泊」。
漢詩を中国語、特にこのように韻を踏んだものは、聞いていて心地よい。音楽のような響き。中国語の授業の相浦教授の朗読もそんな感じだった。
「月落ち鳥啼き霜天に満つ 河楓 漁火 愁眠に対す・・・」 
若い時代に感激したこの詩、年齢を重ねた今、ますます郷愁を誘う。

画像

画像

画像


「西園寺」蘇州人が最も愛するお寺らしい。
元時代のお寺、黄色い壁と五百羅漢が印象的。

画像

画像

画像


蘇州は名園が多い。「蘇州古典園林」という。
蘇州古典園林のうち、宋代の滄浪亭、元代の獅子林、明代の拙政園、清代の留園の4つの時代にそれぞれ作庭起源をもつ庭園を合わせて蘇州四大園林ともいう。
滄浪亭以外がこの写真。
名園とは当時から分かっていたが、まったくその良さが分からず(笑)
おもろい石が並んでいるだけ。
今見たらどうだろう・・・中国の影響を受けて日本独自に発達した日本庭園や寺の方丈などはそれなりに鑑賞する経験を積んだが。
やはり、再度訪問してみたい強い衝動に駆られる。

画像

画像

画像

画像


蘇州の後は、上海・・・上海。
「豫園」明代の庭園、当時は上海第一の観光地だった。とにかく人が多い。
蘇州を含む江南の名園の一つ。池と橋と中国らしい茶亭が印象的。
庭の良さは分からないが、填茶を一壷いただく。
江南とは長江の南デルタ地帯のことで、中国の秦以前の青銅器時代から発展している地帯。

画像

画像

画像

画像


上海は北京同様に大都市だった。上海の方が都会。政治の北京、工業商業の上海。
「東洋の魔都」「革命の伝統都市」。
浦河飯店という大部屋に6泊、1泊9元(=1元は57円)! 和平飯店の隣だった記憶。
大部屋に西洋人のバックパッカーがたくさんいた。別途が一つ・・・鞄は盗難防止でベッドに括り付け(笑)・・・そんな時代。
ちょっと危険な香りだが、若いからこそ出来た貴重な経験。
大都会上海、南京路が繁華街、人の多さにびっくり、第一百貨店は人人人。
外灘や呉松河の居留地の西洋建築の雰囲気は独特の上海らしい風が吹く。

画像

画像


帰りは「鑑真」号、唐招提寺を開山した中国の高僧、鑑真の名前を冠する。
日本と中国を繋ぐ定期フェリー。
後にも先にも、海外からの帰国で船でのお別れはこれだけ。
中国に残る友人がテープを持ってくれて感慨ひとしお。
出発から24時間で鹿児島の開聞岳がみえ、48時間で神戸到着、1986年4月7日。
中国での滞在日数は4月5日までの43日間。
こうやって振り返れば、濃い濃い時代だった。

出会った方々は一期一会、サングラスをかけてる奴は同期の河野さん,最初から最後まで一緒だった。ありがとう!
八木さん(赤いシャツ)・・・一緒に香山を登ってくれて、ありがとう。
岸本さん(白いセーター)・・・中国語を教えてくれて、ありがとう。
津山さん(同期)・・・上海で見送ってくれて、ありがとう。
関口さん(頬杖)・・・「森脇さんって男性だけど話しやすい」と言ってくれて、ありがとう。
旅で出会った人々、ありがとう。そうそう頤和園の王さん! ありがとう。
画像 画像 画像 画像 画像 画像

2021年1月16日(記)〜四川で中国語の看板を背負ってガンバル大学の友人に思いを馳せながら〜

©2006-21 yamaburabura. All rights reserved.